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音楽家の名のついたバラを集めてみました・・・

2016年07月21日

ドビュッシーの生涯

クロード・ドビュッシーの生
20世紀のとびらを開いたフランスの作曲家  K.550吉川
【はじめに】 
1600年以降に生まれた知名度のある作曲家で、本年記念年を迎えたのは約7名をかぞえる。その中で我々にとって何といっても存在感の大きいのはドビュッシーであろう。  1862年生まれで、本年生誕150年を迎えた。高校生の頃から「牧神の午後への前奏曲」や交響詩「海」などは音楽の時間に鑑賞したが、当時の感覚ではドイツ系の曲に比べ何となく馴染みにくかった記憶がある。
今回彼の生誕150年を機に彼の生涯を始めて調べてみたので、概要をリポートさせていただきたい 。
クロード・ドビュッシー
(Claude Achille Debussy 1862年8月22日サンジェルマン=アン=レー生、1918年3月25日パリ没)はフランスの作曲家、形式、和声、色彩において伝統的基準によらない、全く独自のオーケストラや、ピアノのための作品を多数残し、また、歌曲や唯一のオペラ「ペレアスとメリザンド」は、控え目な表現による新しい内面的心理描写に成功した。   
後世の作曲家で、ドビュッシーの影響を受けていない者はほとんど見られない。文学のマラルメ、美術のセザンヌにしばしば比べられることがある。ドビュッシーは作風などから最も典型的な印象派音楽家と見做されている。
ファイル:Claude Debussy ca 1908, foto av Felix Nadar.jpg<by Nadar>
Ⅰ.生涯   
ドビュッシーが生まれた当時、両親は陶器の店を経営していたが、父は間もなく行商人となり、次に印刷屋の手伝い、後に事務員となった。
 また母は暫くの間、お針子をしていた。幼いドビュッシーの不安定な生活は、1871年のパリ・コミューンのときに頂点にたっする。その時彼の父は革命に加担した罪で投獄されたからである。
  然しこの間にドビュッシーは、詩人ヴェルレーヌの義母に当たるモテ夫人からピアノのレッスンを受けていた。この夫人は、ショパンの弟子だったと言われてきたが、例えそうでなかったにしても、少なくとも手中にある素材の並外れた素質には気付いていた。
 72年10月、ドビュッシーはパリ音楽院に入学を許されマルモンテルのピアノクラスとラヴィニヤックの理論のクラスに入ることになった。
  ここで師事した教師は他にデュラン、パヂーユ、キロー、それに非公式の短い期間だけであるがフランクがいる。
  80年の終りごろ、ギローのクラスに入り、師の指導の下に83年ローマ賞第2等を獲得し、翌年にはカンタータ「放蕩息子」で第1等に輝き、ローマ大賞を得て同音楽院を卒業した。
 
その後ローマで2年間留学生活を送った。交響曲「春」、カンタータ「選ばれた乙女」は留学生に課せられたアカデミーへの送付作として書かれたが、後者はパリに戻ってから完成。<1885 at Villa Medicis >(中央がDebussy)
1887年2月にはパリの両親のもとへ帰った。
  88年と89年にはバイロイトを訪れ、89年パリ万国博覧会の折に聞いたジャワのガムラン音楽に魅せられる。 この頃からガブリエル・デュポンとの関係が始まり、以後9年間に亘って赤貧の同棲生活が続くことになる。   さらに90年には「留学作品」の内の2曲、「ピアノと管弦楽のための幻想曲」と「選ばれた乙女」の公式演奏会の際に、通例付け加えることになっていた序曲を書くことを拒否して独立心をはっきり示したが、その結果コンサート自体が取りやめになった。1892年ドビュッシーはショーソンと親交を深めたが、この時既にヴェルレーヌの詩による「あでやかな宴」を完成しており、また「牧神の午後への前奏曲」と「夜想曲」の最初の稿にとりかかっていた。
  しかし彼の音楽が世間の注目を浴びるようになったのは、93年4月に国民音楽協会の演奏会で「選ばれた乙女」が演奏されてからである。
  翌月にはメーテルリンクの戯曲「ペレアスとメリザンド」の舞台を見て、恐らく直ぐにこの戯曲をオペラ化する構想を練り始めたものと思われる。
  12月にはイザイ四重奏団により、彼の弦楽四重奏曲ト短調が初演された。
 ドビュッシーは,94年初めに歌手テレーズ・ロジエと婚約したが、この婚約は気まずい状況のもと解消され、そのためショーソンとの友情が永久に絶たれることになった。
こうした「ボヘミアン時代」のこの上ない偉業が、94年12月に初演された「牧神の午後への前奏曲」であることは疑う余地が無い。95年の春までに、「ペレアスとメリザンド」の初稿を書き上げていたが、完成作品が表れるには97年夏の3曲の「ビリティスの歌」を待たねばならなかった。この年、当時も愛人関係にあったデュポンが自殺を図り、ドビュッシーの人生における絶望的な時期の先触れとなる。
1899年10月19日に、ドビュッシーはデュポンの友人でモデルをしていたロザリ(リリ)・テクシエと結婚した。
<Claude Debussy & LillyTexier>
またその年の12月にはオーケストラのための「夜想曲」を完成している。   1901年5月「ペレアスとメリザンド」のオペラコミック座での上演が正式に許可された。
 02年4月、この傑作のリハーサル中に、債務不履行で告訴され、大荒れに荒れた公開総練習であったが、4月30日の初演は直ぐにフランス音楽史上画期的な出来事として認められた。
  このオペラは以後10年間のうちにパリで100回も上演された。   1904年と05年は特に多作の年であった。この時書かれた新作には「あでやかな宴」の第2集、ピアノ曲集「映像」第1集、「喜びの島」、「海」が挙げられる。  
03年の秋、彼は銀行家の妻であったエンマ・バルダックと出会う。彼女は素人ながらフォーレが歌を捧げた程の歌い手であった
  04年6月ドビュッシーは妻の許を去り、秋にはバルダック夫人と共に、ボワ・ド・ブローニュ通りにある夫人が購入したアパルトマンに移り住んだが、この家は彼にとってついの住みかとなった。
  しかし同年10月には、彼の妻が自殺を図り、このスキャンダルによって多くの友人がドビュッシーとの関係を絶っていった。ファイル:Emma Debussy after Leon Bonnat.jpg<Emma Bardac>

<Claude Debussy & Emma Bardac>
1年後の05年10月30日、「海」の初演から2週間後にドビュッシーとエンマの間に娘が誕生し、クロード=エンマ(シューシユー)と名づけられた。
  両親は08年1月2日に婚姻届を出している。<Debussy & Chouchou>
 1906年には僅かにピアノ曲集「映像」第1集の初演と1曲のピアノ小品の出版があっただけで、次の主要作品の初演は、08年2月になってからである。この時はビニエスが「映像」第2集を演奏している。
  この頃までにドビュッシーの物質的豊かさへの望みは打ち砕かれていた。それは07年にバルダック夫人の叔父で金融業者のオジリスが、彼女から相続権を奪ってしまったからである。そのため、以後7年間に亘って ドビュッシーはピアニスト或いは自作品の指揮者として、イギリス、ベルギー、オランダ、オーストリア、ハンガリー、イタリア、ロシアと10回もの演奏旅行をしなければならなかった。
  1908年の終りにドビュッシーは、3曲から成るオーケストラの「映像」の第2曲「イベリア」を書きあげた。
  続く09年は音楽上の特別な成功を成し遂げた年である。
  まず、パリ音楽院上級評議会の一員に指名され、ロンドンでは「ペレアスとメリザンド」のイギリス初演が行われ大成功を収めた。またラロワによるドビュッシーの最初のフランス語の伝記が出版されたり、ピアノのための「前奏曲集」第1巻のうち5曲を書き始めたりもした。
 しかし、この年の初め頃から、彼を死に至らしめることになる直腸癌に苛まれるようになり、苦痛を軽減する為には、麻薬を用いなければならなかった。 
  翌年「イベリア」と「春のロンド」が初演され、新たに2件作曲依頼を受けた。いずれも主に経済的理由によるものとおもわれる。
  依頼による作品「カンマ」と「聖セバスティアンの殉教」はそれぞれ他の音楽家(ケクランとカプレ)に助力を頼んでいるが、彼自身のスタイルの展開についての明確な考えを示すこともなく、結果は成功とはいいがたいものであった。
  13年にはバレエ曲「遊戯」の管弦楽化を終えた。これはディアギレフのバレエ団によって、その年の春に上演されたが、その2週間後に初演された「春の祭典」に比べて、著しく見劣りがした。
  1914年、ドビュッシーはロンドンを訪れ、この後も引き続きアメリカ、イギリス、スイスへの旅行を計画していたが、これが最後の外国旅行となった。
 翌15年の初めに、彼の出版社ジャック・デュランにショパン全集の編集を依頼され、このお気に入りの仕事からピアノのための12曲の「練習曲集」が生まれた。 
 この作品はドビュッシーがプルヴィルで過ごした7月から10月までの間に作曲したうちのほんの一部に過ぎない。
<Debussy at Pourville (Normandy)>
 この湧き出るような最後の創作期に、「白と黒で」を完成させ、また楽器の多様な組み合わせから成る六つのソナタを作る計画で、初めの2曲を作曲した。
  しかしパリへ戻ると激しい痛みに襲われるようになり、12月には結腸切開の手術を受けた。  翌年にはほとんど何の仕事もしなかったが、ポーの小説に基づく「アッシャー家の崩壊」の台本の最終稿だけは完成させている。彼はこの作品の計画を、おそらく25年もの間温めていたようであるが、ついに完成させることはできなかった。最後の作品、ヴァイオリン・ソナタは17年5月に、ドビュッシー自身のピアノ伴奏で初演された。同年9月サン=ジャン=ド=リュズでも同曲を演奏したが、それは彼が公の場で演奏した最後の音楽となった。18年の初め頃からは部屋に閉じこもったままとなり、3月25日、かえらぬ人となった。
Ⅱ.ドビュッシーとラヴェル
  
 ドビュッシーとラヴェルの文通については何の記録も残っていないが、1898年の初期、ラヴェルの「耳で聞く風景」の初演時が彼等の初対面で会ったようである。
  2年後、ラヴェルはドビュッシーが行った「ペレアス」の私的な通し演奏会に出席し、その後二人の関係は、「ペレアス」上演の時まで、確かに友好的であった。
  友情が壊れたのは、様々のつまらない理由からである。例えばラヴェルの「耳で聞く風景」の中の “ハイメージ 1バネラ” と、之より後に発表されたドビュッシーの“グラナダの夕暮れ”とが似ていると思われたこと、またラヴェルが「博物誌」の「人工的なアメリカニズム」のなかで彼の確かな才能を浪費したとするドビュッシーの失望、そして恐らくはドビュッシーの中にあるかなりの嫉妬心である。
  更に多分ドビュッシーの再婚の道徳観に対するラヴェルの批判も一因であろう。
 二人の共通の友人であるミジア・セールの後の証言によれば、ラヴェルは、ドビュッシーが見捨てた最初の妻に毎週少額の手当を援助していたようである。
  既に1904年にロランのような知的な素人でさえ次のように書いている。   「私も随分様々な音楽家に出会ったが、その中にドビュッシー自身よりドビュッシー的な人がいる。それはラヴェルだ。」このような言葉はドビュッシーを途方も無くいらだたせた。
 ロックスバイザーが指摘したように、ドビュッシーの書簡でラヴェルの名前が挙がるときはいつも、「嫌味や皮肉や懸念を帯びた調子」で言及されたのである。
  そして13年に、ラヴェルが自分と同じくマラルメの二つの詩に作曲したと分ったとき、ドビュッシーはかなりの不快感を表わした。これは多分に、再びお祭り騒ぎで比較されるきっかけになることを恐れたためであろう。
  それに対して「水の戯れ」における新しいテクスチャアや和声のアイディアの所有権を主張するラヴェルの気持ちは無理からぬものがあるが、それは別として、ラヴェルは生涯を通じてドビュッシーを師とあがめていた。
  ラヴェルは、ドビュッシーの作品を数多く編曲する傍ら、「スケッチ帳より」を初演したり、また20年の“Revue musicale”誌上に掲載された「ドビュッシーの墓」には、簡単なその場限りの曲ではなく、ヴァイオリンとチェロのためのソナタ第1楽章を捧げている。
  ラヴェルは晩年一人の友人に「牧神の午後」について「もう何年も前にこの作品を聴いたとき、初めて真の音楽とは何かを悟った」と語っている。
Ⅲ.ドビュッシーとストラヴィンスキー

 ドビュッシーとストラヴィンスキーが初めて会っのは、1910年6月25日の「火の鳥」初演後の舞台裏である。
ドビュッシーの直後の反応は称賛であったが、ストラヴィンスキーはドビュッシーが後で「結局君はいつかは始めなければならなかったのだ。」と但し書きをつけたと語っている。  ロシアでストラヴィンスキーはジローティの指揮した「牧神の午後」と「夜想曲」に感銘を受けてはいたが、「火の鳥」にはドビュッシーの流儀はほとんど見られず、むしろリムスキー=コルサコフの影響の方が強い。「ペトルーシュカ」はドビュッシーが手放しで称賛したストラヴィンスキーの唯一の作品で、「私が<パルジファル>でしか見たことのなかった管弦楽法の確かさ」と「魔術」における「響き渡る魔法」と言っている。その後暫く2人の親交が続き、ドビュッシーは、ストラヴィンスキーに「遊戯」の管弦楽法について助言を頼んだりした。また彼等は「春の祭典」のピアノ二重奏を共演したが、ドビュッシーはその低音部をさしたる困難も無く初見で演奏した。しかし「春の祭典」の初演後、ストラヴィンスキーに対するドビュッシーの評価は、ほとんど恐れの様相を帯びるになる。 16年の書簡では、ストラヴィンスキーについて「時々音楽に粗暴なふるまいをする駄々っ子のようである。彼は、はしごを登るのを私が助けたので、私と友人でいるのだと公言している。そして全てが爆発するとは限らないが、彼はそのはしごから手りゅう弾を投げるのだ」と言っている。
 もしドビュッシーが、ラヴェルは才能を浪費していると感じたなら、ストラヴィンスキーはあまりにうまくやりすぎたのであろう。「春の祭典」のスコアをストラヴィンスキーから贈られた答礼として、ドビュッシーは「人生の坂道を下り始めてはいますが、音楽への強い情熱を持ち続けている私にとって、あなたがどんなに音の帝国の範囲を拡張したかと言えるのが本当に嬉しくてなりません」と書いている。  
  それはドビュッシーが始めた仕事であるが、既に病が重くなりすぎて、もうそれを究めることはできないと知っていたのだろう。ストラヴィンスキーはラヴェルと同様、この年長の音楽家に対して疑いなく恩義を感じていた。彼は<ペレアス>を「素晴らしい部分がたくさんあるのに、全体としては大層退屈だ」と恐らく思っていた。しかし彼は「私自身を含めて私と同世代の作曲家たちは、最も多くのものをドビュッシーに負っている」と認めている。
Ⅳ.作曲数(含未出版、未完)
〔曲の種類〕         〔作曲数〕
     オ ペ ラ           5
     バ レ エ           4
     付随音楽            4
     その他劇作品         32
     管弦楽曲           11
     管弦楽編曲          10
     声楽と管弦楽のための作品   10
     合 唱 曲           5
     室内楽曲           15
     歌  曲           56
     ピ ア ノ 独奏曲      30
       〃   4手用       3
       〃   2台ピアノ用    2
       〃   編曲        9
     合   計         196
参考文献:ニューグローブ世界大音楽辞典、新音楽辞典[人名]、 新音楽辞典(楽語)、標準音楽辞典、新編音楽中辞典(何れも音楽之友社)

 

2016年07月21日

言葉の達人モーツァルト

言葉の達人 モーツァルト K.515 鐘ヶ江
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(以下、モーツァルト)は、日常はどのような言葉を話していたのであろうか。
父レ-オポルトは南ドイツ・ミュンヘン市に近いアウクスブルグ出身なので、いわゆる「バイエルン方言」、母アンナ・マリアはオーストリア・ザルツブルク市近郊のザンクト・ギルゲン出身なので、オーストリア・ドイツ語、いずれも「バイエルン・オーストリア・ドイツ語圏」に属する。
モーツァルトは、その両親の子供として、ザルツブルクで育ったので、
「バイエルン・オーストリア・ドイツ語圏」の中の「ザルツブルク方言」を話していたことになる。
1770年6月、イタリア・ナポリから姉ナンネルに宛てた手紙の中で、モーツァルトは「ザルツブルク弁で話しましょう」と書いている(文献1)。 当時の「ザルツブルク弁」がどのような言葉であったかは分からないが、(文献2)によると、バイエルン・オーストリア・ドイツ語は、「高地ドイツ語圏」(標高が高い地域のドイツ語圏)に属するので、北の「低地ドイツ語」(標準語)と違い、また、当時の方言が今も変わっていないとすれば、 モーツァルトは、
① 「こんにちは」を、「グ-テン・タ-ク」(Guten Tag)ではなく、「グリュス・ゴット」(Grüß Gott)、
② 「わたくし」は「イヒ」(ich)ではなく、「イ」(i)、
③ Salzburgは、語頭のSを濁音とせず、「サルツブルク」、などと、ソフトな響きのドイツ語を話していたかも知れない。
父 レーオポルトは、1760年(4歳)ごろから、モーツァルトに対して、ヴァイオリンやクラヴィアのレッスンと共に学校教育に代えて、文字や数字の教育や、外国語教育にも力を入れ始めた。
1764年(8歳)には、一家はパリ経由英国に渡るが、モーツァルトはロンドンでモテット「神はわれらの避けどころ」(God is our Refuge,K20)を作曲し、大英博物館に寄贈した。その自筆譜には、彼自身が書いた英文字が見える。(文献3)
9歳のモーツァルトが作曲し 大英博物館に寄贈されたK.20の自筆
後に英国に渡航しようとした時、英語に取り組もうとした資料があるが
(文献4)、英文の手紙は残っていない。
1846年に、ナンネルの親友であった通称カテルル嬢に宛てたモーツァルトの最初の手紙(1769年、13歳)が発見されたが、それはラテン語で書かれていた。このころ、モーツァルトは集中的にラテン語を学んでいたようで、高橋英郎氏は、その著書の中で、この手紙に関して、「モーツァルトは、彼女の了解を得た上でラテン語の手紙をいたが、いたずら心から、彼女のラテン語力を試そうとしたのではないか」と書いている。(文献1)1770年(14歳)には、ラテン語の2曲のモテットを作曲したり、その後、多くのモテットを書いているが、中でも「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(Ave verum corpus, K618)注 は有名である。
モーツァルトは、早くからラテン語に習熟していたと思われる。
レーオポルトは、ラテン語と共に、音楽を志す者の必須科目であったイタリア語教育にも力を入れた。
1769年(13歳)の最初のイタリア旅行に備えたに違いない。旅先からナンネルに宛てた第一信はイタリア語であった。
また、その後、1778年(22歳)には、モーツァルトは、パリから、結局は失恋したマンハイムのソプラノ歌手アロイジア・ウェーバー嬢宛てに手紙を書いているが、それは全文イタリア語であった(文献3)  ・・・
1778.7.30付
最愛の人よ!
(文献3)
フランス語は、ナンネル宛ての手紙の中で、イタリア語、英語などと共にちゃんぽんで単語が出てくるが、フランス語単独の手紙は見当たらない。しかし、1778年パリで母と死別し、葬儀等も自身で行ったようなので、かなりのフランス語力があったと思われる。ただ、同年パリから父親に宛てた手紙に「このいまいましいフランス語と言うやつ」と言う表現があるので、あまり好きではなかったらしい(文献5)。
モーツァルトは音楽の「神童」であると同時に、子供のころから語学の達人でもあった。その達人はどの様にして作られたのか。以下は筆者の試論である。
その第1は、極めて優秀な先生がいたからである。それは他ならぬ
父レーオポルトであった。彼は、前述のように、早くから息子の音楽的才能を認めて、その訓練を施す一方、学校教育にも劣らぬ基礎教育を行った。その中でも、上記のように語学教育を重視し、それを集中的に行った。 
第2に、言語は、本来、子供が親を模倣して、音から学ぶものであるが、それは音楽と合い通ずるものがある。だから、モーツァルトは言語学習の素質が十分にあったと思われる。それに加えて、彼は「優れた師の教えを瞬時にして自らの創作能力に転化できる恐るべき学習能力を持っていた」と言われている。(文献6)
 
第3に、語学教育に関しては、それが、言葉への好奇心が強く、しかも習熟速度が速い幼児期に行われたことも寄与している。 

第4に、広範囲、長期間にわたる多くの旅行が欧州諸語の習得に役立ったと言える。

第5に、ラテン語、イタリー語、フランス語、スペイン語などは、ロマンス(ローマ人の)語と言われるように、共に同根であり、また、ドイツ語と英語はゲルマン語と言われるように、相互に似た単語が多く、ラテン語も多く入っている(文献2)。
ヨーロッパ人であるモーツァルトは、ヨーロッパ諸語を学習しやすい環境にあった、と思われる。以上に加えて、モーツァルトは、国境を越え、時代を超えて通用する、優れた「音楽言語」を持っていた。正に「言葉の達人」であった、と言えよう。
(注)ラテン語のAve verum corpus は、通常、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」と、veが「ヴェ」と英語読みされているが、ラテン語読みでは、vは英語のw(ウ)と同じ音(子音)なので、「アウェ・ウェルム・コルプス」となる。(文献7)                (完)
 
参考文献)
1.高橋英郎著「モーツァルトの手紙」、小学館、2007年
2.河崎靖著「ドイツ方言学—ことばの日常に迫る」、現代書館、2008年3.田辺秀樹著「モーツァルト」、新潮文庫、1984年
4.近藤昭二著「モーツァルト99の謎」、二見文庫、2006年
5.国際モーツァルテウム財団編「モーツァルト91」、集英社、1991年
6.中野雄著「モーツァルト 天才の秘密」、文春新書、2006年
7.大西英文著「はじめてのラテン語」、講談社現代新書、1999年

 

2016年03月01日

モーツァルトとアロイジア

モーツアルトを虜にした一人の女性、
         アロイジア・ウェーバー                 K.496 天野
“心の叫び”から生まれた「求愛のうた
 音楽家は音という表現手段を使って自分という存在をアピールする人です。当然、これを武器にして異性に対しプロポーズの表現をすることだってあるはずです。今回のレポートではここのところにメスを入れようと試みてみたのです。ちょっと幼稚な試みだと笑われそうです。まあ、クラシック音楽の「求愛のうた」を考えてみたという程度ものです。
 オペラや声楽曲の場合、作曲家は詩や台本に共感して、その主人公の気持ちを何とか伝えようと作曲します。この時の対象の異性は詩や台本の上での架空の人物への愛情表現を音楽にする場合と実在の自分の彼女にプロポーズの表現する場合があります。前者は眞の意味で “心の叫び” ではありません。私はこういう場合は除外したいのです。それは絵空事であって作曲テクニックの範疇に入ってしまうことになります。その作曲家が現実に恋愛している彼女( 彼 ) への「求愛の気持ちが存在」しているかどうか。このことが重要だと考えたのです。しかしこの区別は難しい。とりわけ器楽曲は。「この曲は彼女のことを想って作曲しました」という本人の告白の記録が残っている場合( ショパンのピアノ協奏曲第一番2楽章やグリーグのピアノ協奏曲など )は別にして…。
 このレポートはこれをあえてやってみようとしているのです。
 今回の考察の根拠は作曲された年代とその頃どんな女性と付き合っていたかを分析し、私自身がその曲を何回も何回も聴くことによって最後は私の主観で決めたものもあります。私の幼稚な知識でもって決めてしまったということで、まったく根拠のない答えを導いてしまったかもしれないことを断っておかなければなりません。もちろん音楽学者たちがそうだと結論付けたものも入れてあります。さて、音楽史を振り返ってみると、バッハの時代までの作曲家は教会や貴族たちの要望に応じて作曲するというのが一般的で、プライベートな恋愛感情を作品にぶつけるということはあまりなかったといえます。あまりと思わず書いたのですが、人間ですから、かって画家が教会の依頼で「聖母マリア像」を描いた時、実在の自分の彼女をモデルにして想いのたけを絵筆にたくした作品が多く残っています。そのことと同じように音楽家だってあったのかも知れません。( バッハだって!? ) でも、一般的にはそうではないというのがわれわれの習った音楽史です。ロマン派を待つこととなるというのです。
 モーツァルトを虜にした一人の女性、
アロイジア・ウェーバー ( 1760~1839年 )
 こうしていろいろ調べてきたのですが、「彼女への想いのたけ」を作品に反映させた最初の作曲家はモーツァルトだという思いに至りました。ありがたいことにモーツァルトに関しては彼自身や周りの人々たちが残した膨大な資料があります。これを基に後世の研究者のおかげで彼の作品の年代、足どり、女性関係についてはかなり分っています。私はこれをヒントに調べて行くと見えてくるものがあると考えたのです
       アロイジア・ウェーバー肖像画01
 1777年9
 モーツァルト21歳の時です。彼は就活のため、母と二人でパリに向かいます。この時生まれて初めて、父レオポルトのまるで操り人形のような束縛から解放されたのです。
 気分はルンルン。ミュンヘンを経て、マンハイムでウェーバー家 ( オペラ「魔弾の射手」の作曲家あのウェーバーの親戚筋 ) の4姉妹に出会います。その次女アロイジアにぞっこん参ってしまいます。彼女はまだ16歳で、かわいくて美しいソプラノ歌手です。( 肖像画01 ) 彼は夢を見ます。二人でいっしょにイタリアに行って、自分のオペラ作品を歌わせたら大評判になるだろうと。
1778年2月
★コンサート・アリア「わたしは知らない、このやさしい愛情がどこからやって来るのか」K.294
CD①:(ソプラノ)ルチア・ポップ (指揮)レオポルト・ハーガー モーツァルテウム管弦楽団
ルチア・ポップが好きだという人は多い。私もその一人だ。琴線に触れるように訴える歌声。モーツアルトの代弁者のようだ。
 こうして生まれたのがこの曲です。この曲を実際アロイジアは聴衆の前で歌いました。その時のモーツァルトの気持ちは天にも昇る気分だったでしょう。聴いていると分かってくるのですが、これは求愛の歌です。モーツァルトのアロイジアへの「心の叫び」です。余談ですが、一応声楽をたしなむ筆者としては、この曲を16,7歳の子供が満足に歌うことは至難の業だと思うのです。内容もともかく、技術的に音域、パセージ全て超難曲です。これを彼女は見事に歌ったと言われていますが、録音もない時代、今の人の耳から聴いてみてどんな程度だったか分かりません。後になってグルックはアロイジアの歌唱を聴いて絶賛したというから、早熟の天才少女だったかも知れません。美人ですらっと背も高くまさにスター歌手として生まれてきたような人なのでしょう。モーツァルトは彼女と一緒に居たいがためにこのマンハイムにいつまでも滞在しようとするのですが、父レオポルトからパリに行って職を探せと矢継ぎ早の催促が来ます。
17783
 やむなく彼女と別れてパリに行きます。しかしながら天才少年とちやほやされた昔のパリと異なり、今は冷遇される毎日。そんな中、頭の中は別れてきたアロイジアのことで一杯です。作品はなかなか売れないし、生活にも困窮していた時、ある音楽愛好家の侯爵から作曲の依頼が舞い込んできます。
それが「フルートとハープのための協奏曲 K.299」です。
1778年4
 この曲が生まれます。この頃はモーツァルトの傑作の山の年です。フルート四重奏曲( K.285a ),ヴァイオリン・ソナタ( K.301,302,303,305 )、フルート協奏曲( K.313,314 )、交響曲31番( パリ )などが生まれています。これらの曲には “アロイジアへの心のときめき” が見え隠れします。
 しかしこの3 ケ月後、7月に母を失います。八方ふさがりのモーツァルト。
1778年7月30
アロイジアに宛てて、ラブレターを書きます。「最愛のひとよ ! アリアのための装飾的変奏曲を今回お送りできなくて、申し訳ありません。…ぼくが一番幸せになれるのはあなたに再会し心からあなたを抱擁する至上の喜びを我がものとするその日なのです。…」と。
9月にパリを出発。帰国の途に。ところがモーツァルトは、もう一度アロイジアに逢いたいそれ一心です。この曲を彼女に歌って欲しい。ただそれだけを願って生まれた曲が…。
1778年12月
★コンサート・アリア「不滅の神々よ私はもとめはしない」K.316
 CD②:(ソプラノ)エディタ・グルベローヴァ
(指揮)レオポルト・ハーガー ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団
 この曲でグルベローヴァの右に出る歌手はいません。完璧。
 これは必至に迫りくる狂気のプロポーズの曲です。胸が締め付けられます。モーツァルトは彼女への手紙の中で自分のこの種の曲では最良のものだと語っています。
 もう居ても立ってもいられないモーツアルトの気持、心の叫びです。泣けてきます。
 こうしてパリから帰省する途中、ミュンヘンに立ち寄りアロイジアと再会します。彼女の声は一段と美しくなり、美貌にも磨きがかかって前途有望なオペラ歌手の卵になっていました。モーツアルトはプロポーズします。すでに劇場で成功していた彼女にとっては、モーツァルトは確かに昔は天才と言われたかも知れないが、今は見栄えのしない子供っぽい田舎の一人の音楽家に過ぎないと映ったのではないでしょうか。要は男としての魅力 ( 彼は身長が163cmでドイツ系の人にしては小柄であった ) を感じなかったのでしょう。けんもほろろに断られたのです。かくして失恋のどん底。彼はザルツブルクに帰郷します。この時、一つ年下の従妹マリア・アンナ ( 通称・ベーズレ ) を連れ添って帰ります。父はこの従妹との結婚を望んでいたようですが、モーツァルトはベーズレに対してはアロイジアに寄せたような恋心には至らなかったのです。想像ですが、この行動は失恋の腹いせだったのではなかったのでしょうか。
1779年1月
こうしてザルツブルクでは父の計らいで宮廷音楽師として復職します。でも、どうしてもアロイジアに対する未練はいっぱい残っています。

★ミサ曲 ハ長調 ( 戴冠ミサ ) K.317 より「アニュス・デイ」
 CD③:(指揮)カラヤン ベルリンフィル  (ソプラノ)アンナ・トモア・シントウ
この曲はザルツブルク近郊のマリア・ブライン教会の聖母像の戴冠祝日のために復職後の大仕事となりました。全曲を通じて実に世俗的なメロディーに溢れています。圧巻は「アニュス・デイ( 神の子羊 )」です。このソプラノのソロはまさにモーツァルトのアロイジアへの失恋への慰めではないでしょうか。アロイジアを聖母マリアとダブらせて作曲したのではないか。そう思って聴くといっそう心にしみわたってくるようです。このアリアが歌われ「平和を与え給え」の大合唱に進み全曲が結ばれていくところはモーツアルトの心の中そのものです。
ザルツブルクで2年間、まったく馬の合わないコロレド大司教のもとですが、宮廷音楽師としての仕事をしぶしぶこなしていたようです。その頃、アロイジアといえばミュンヘンの歌劇場と契約しスターへの道を歩み始めていたのです。このことを本は知っていたのか分かりません。彼はといえば夢となってしまったが、もう一度アロイジアに逢って仲直りしてイタリアに行って新しい運命を開きたいそんなことばかりを思っていたのではないでしょうか。
1780年11
そんな時、吉報がミュンヘンからやってきたのです。オペラ「イドメネオ」の作曲依頼です。この「イドメネオ」はある一定の評価は得たものの、当時としてはあまりに斬新で、台本がイタリア語であったこともありシーズン中には2回しか再演されなかったようです。このオペラの真価は20世紀後半になってからやっと日の目を見るに至ったというわけです。
1781年3月
そしてコロレド大司教の命令でウィーンに呼び寄せられます。そこでついに大喧嘩をしてしまいます。これを機に父とも、コロレド大司教とも決別し、ウィーンでの一人の生活が始まるのです。ここで運命のいたずらなのか、何とウィーンでの最初の住まいはウェーバー家の下宿だったのです。アロイジアはすでに俳優のランゲと結婚し人妻となっていました。モーツアルトの落胆はいか程だったでしょうか。あの甘い夢は露と消えてしまったのです。それでも未練を引きずり続けるのです。
1781年5月16日
 父に宛てた手紙です。「ランゲ夫人(アロイジア)のことでは、僕は阿呆(道化)でした。そりゃあ、たしかにそうです。でも恋をしたら阿呆にならない人がいるでしょうか ! それにぼくは彼女を本当に愛していたんです。 そして今でもぼくは、彼女がぼくにとってまだどうでもいい女性にはなっていないことを感じるのです。ぼくにとって幸いなのは、彼女の夫がどうしょうもないやきもち焼きで、彼女を決して一人では外出させず、したがってぼくが彼女と会う機会がめったにないことです。…」
妻コンスタンツェはアロイジアのあてがい ! ?

 ところでウェーバー家は4姉妹です。3女のコンスタンツェ( 1762~1842年 )がここで登場します。( 肖像画2 ) からも解るようにそれ程美人でもなく( スタイルがいいとモーツアルトは褒めている ) 、特別の教養人でもなく音楽は声楽がちょっと出来る程度のその辺にいるお姉ちゃんといったところです。どうしてこの女性に気を寄せるようになったのでしょうか ?
単に「あばたもえくぼ」ということだったのでしょうか ?
ここからは筆者の仮説です。コンスタンツェはアロイジアの妹ということで彼女とダブらせて親近感を感じるようになったのではないでしょうか。はっきり言えば、アロイジアの代替えです。セックス処理のため…。失言かな !
       妻コンスタンツェ 肖像画02
1781年12月15日
 決定的な証拠が残っています。この日、父に宛てた手紙です。
「…ぼくの最愛のコンスタンツェは醜くはありませんが、美人とはとても言えません。
彼女の美しいところは、その小さな黒いひとみとすらりとした身体つきです。機知はありませんが、健全な常識を持っていますから、妻として母としての務めは十分に果たすことができます。…」
ここで垣間見えることは決して「あばたもえくぼ」的な恋ではないことが分かります。大人の醒めた言葉で、何だか弁解じみている内容です。父親をただただ安心させようと一生懸命です。結論として、コンスタンツェに対してはアロイジアに寄せた時のように、狂うような恋の炎はなかったということです。コンスタンツェへの接近は妥協の産物ではなかったのではないのでしょうか。私はそう思えてならないのです。
1782年4月
★コンサート・アリア「私の感謝をお受け下さい」K.383
 CD④:(ソプラノ)エマ・カークビー (指揮)クリストファー・ホグウッド エンシェント室内管弦楽団
 この曲はカークビーがベストでしょう。ノックアウトだ。
アロイジアがウィーンを離れるとき、別れの演奏会で歌った曲です。何とあどけなく心に迫ってくる曲でしょうか。「どこに私がいようとも、いつまでも私の心はあなたの傍にいます」と…。未練タラタラです。私はモーツアルトが不憫に思えてなりません。
1782年8月
 こうして母親の詐欺的とも言える積極的なバックアップもあり、父レオポルトの猛反対を押し切って二人はやがて結婚する運命となります。
こうした頃、オペラの仕事とも取り組んでいます。
それが…。

★歌劇「後宮からの誘拐」 K.384
 CD:(指揮)ゲオルグ・ショルティ ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 ここで奇跡のようなことが起こっています。オペラの主人公の名前が何とコンスタンツェと同姓なのです。ストーリーは簡単です。トルコの太守セリムに売られてしまった許婚のスペインの貴族の娘コンスタンツェを恋人ベルモンテが助け出すというものです。
 これはオペラの台本ですからモーツアルトの現実とは異なった世界の出来事のはずです。でもこの台本上のコンスタンツェをアロイジアに、ベルモンテをモーツァルト自身に置き換えたとしたらとんでもない解釈が成り立ちます。ひょっとしたらモーツァルトはオペラ上のコンスタンツェと現実のコンスタンツェとどうしても諦めきれない人妻のアロイジアを混同してしまったのではないか。つまりオペラと現実と夢とを錯綜させてしまったのではないか。( 馬鹿げた筆者の仮説ですが… ) しかしこの仮説が成立するとこのオペラは実に面白くなります。10倍楽しめます。でもこんなことがもしも事実だったとしたら、実在のコンスタンツェがあまりにも可哀そうになってしまいますよね…。
 ここで挙げた三つのアリアを聴いてください。
1, ベルモンテ( モーツアルト自身 ) のアリア「ここで君に逢えるのか、ああいとしいコンスタンツェ ! 」CD⑤:(テノール)エスタ・ウィンベルイ
2, コンスタンツェ( アロイジア ) のアリア「私は恋をし、幸福でした」CD⑥
3, コンスタンツェ( アロイジア ) のアリア「あの運命が二人を離した日から」&「あらゆる種類の拷問が」CD⑦、⑧:(ソプラノ)グルベローヴァ
さらに、奇妙なことが起きているのです。コンスタンツェの役を初演こそ異なるのですが、後日の公演ではあのアロイジアが実際にこの役を舞台で歌っているのです。この時のモーツァルトは如何なる気持ちだったでしょうか ! どうですか ? 私の仮説もまんざらではないと思うのですが、いかがでしょうか…! ?
1783年6月
★コンサート・アリア「ああ、できるならあなたにご説明したいものです」K.418
 CD⑨:(ソプラノ)エディタ・グルベローヴァ (指揮)ニコラウス・アーノンクール ヨーロッパ室内管
ライブ録音。この演奏は奇跡としか言いようがありません。スゴイの一言。筆者はモーツアルトのコンサート・アリアの中では一番好きな曲で、宝のような愛聴盤です。
 ウィーンのブルク劇場でアロイジアによって歌われた。歌詞の大意は「私の苦しみがどんなものか。でも私は運命の定めにより泣き、黙するしかありません」と。
1783年6月
 モーツァルトはこれ以後、感情むき出しの恋をするようなことはなかったようです。ひたすら生活するために作曲に没頭したのです。断定してしまいましたが1783 年長男が誕生します。自分の子供が生まれてなお、元の彼女のことをメソメソと想い続ける…そんなことは人間として考えられないからです。こうした観点に立つと、これ以降の恋愛にまつわる曲は、感情から生まれたものではなく、理性が勝った曲すなわちテクニックの範疇で生まれた曲だという見解も成り立ちます。

・語り尽くされたテーマですが筆者にとっては新しい発見ばかりで、心ときめく時間でした。特に年代別の分析をすることによって発見できた歌劇「後宮からの誘拐」での仮説(真実は分からない)は、筆者としては大満足でした。
・なお、視聴のCDは筆者手持ちのものから選んだものでこれがベストとは言い切れませんが、いずれも「レコード芸術」誌 特選盤です。ご関心の方は天野まで申し込みください。プレゼントします。
・このレポートは筆者が所属する同人誌「ちいさなあしあと」第55号 2017年新年号に掲載した「恋愛と音楽について考える」を大巾に加筆し年代順に改編したものです。
<主な参考文献>
・田辺秀樹著 「モーツァルト」 新潮文庫
・海老沢敏著 「モーツァルトの生涯」 白水社
・「名曲解説全集」声楽曲Ⅱ 音楽之友社
・記載のCD、レコードの解説文より一部を参考にした

 

2016年03月01日

素粒子とモーッアルト

粒子とモーツ
この記事は文芸春秋文芸春秋平成23年12月号に掲載された、小柴昌俊さんのエッセイです。

 毎日新聞平成23年7月10日夕刊に、同じノーベル賞学者の益川敏英さんが、「好きなもの」と題してエッセイを書いておられる。
  三つの好きなものは、①辛いカレー、②芥川龍之介、③クラシック音楽である。
その③の部分を転載します

2016年07月21日

オペラ教室ご案内

写真はサムネイルです ワンクリックで少し大きくご覧頂けます
2016年07月21日

ストラディヴァリ

 Antonio Stradivari(1644 – 1737.12.18)は、クレモナの伝説的なヴァイオリン製作者であり、アンドリュー・ヒルによれば、DAMと称せられる三大傑作は、1714年製の「ドルフィン」、1715年製の「アラード」、1716年製の「メシア」だという。テールピースの彫り物から「メシア」と呼ばれるヴァイオリンは、ほとんど未使用のまま製作時の姿を保つ珍しい楽器で、ストラディヴァリの遺族からサラブラーエ伯爵、楽器商ルイジ・タリシオ、ヴィヨーム等の手を経てアンドリュー・ヒルによってアシュモリアン美術館に納められた。
 ストラディヴァリの手になる楽器は日本にも何台かが存在するが、ハイフェッツ所有であったDAMの一本である「ドルフィン」は日本音楽財団が所有し諏訪内晶子に貸与されている。
また、宗次徳二氏のNPO法人イエロー・エンジェル所有の1704年製「ヴィオッティ」は竹澤恭子に貸与。
上野製薬㈱所有の1729年製「レカミエ」は庄司紗矢香が使用している。
2016年3月会報より

 

2016年10月31日

マルツェミーノを飲む

名古屋市内のレストランでモーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』CD歌劇を聴き、ドニゼッティの歌劇『愛の妙薬』の話題で盛り上がりながら、ワインを楽しみました。ささやかなレポートではありますが思い出の一コマとしてご覧いただければ幸いです。
お料理は昭和の面影を残す老舗の洋食屋料理で、サラダ、ヒレ・ロースカツ、牡蠣フライ、ステーキ デザートで、下記のワインを楽しみました。
MARZEMINO
マルツェミーノ
バドヴァ周辺でつくられていたが、ヴネト、トレンティーノ、ロンバルディアと広がりモーツァルトが愛したワインとしても知られるワインのご紹介です
 モーツァルトが愛したマルツェミーノ種のワインは『ドン・ジョヴァンニ』第2幕13場で ジョヴァンニが
『Versa il vino! Eccellente Marzemino!
(ワインを注げ!最高のマルツェミーノを!)』
と言うセリフで登場させています。
ドン・ジョヴァンニが歌うこのマルツェミーノ種の葡萄から造られるワインは濃い色合いとプラムのような香りが特徴。
マルツェミーノ100%の「ポイエーマ 2011 ローズィ・エウジェニオ〈赤〉」をご紹介します。

「ポイエマ」とは「創造」という意。
産地 イタリア/トレンティーノ
葡萄品種 マルツェミーノ100% 
爽やかな味、優しい香り、どの料理にも合いそうだ。
ローズィ・エウジェニオRosi Eugenio トレントの南、ロヴェレート近郊の町ヴォラーノ。 スプマンテの生産やマルツェミーノを代表として昔から盛んに栽培・醸造が行われてきた土地。
手つかずの森林に囲まれ、複雑な生物環境が保たれていることは、彼の考える栽培に欠かせない要素の一つである。
次は北イタリア産の白ワインで、モーツァルトも飲んだのでは?というフルーティでボリューム感もあり揚げ物にも良く合うお勧めの一品
ピエロパン ソアーヴェ・クラッシコ “ラ・ロッカ”2014 〈白〉をご紹介します
産地 イタリア/ヴェネト葡萄品種 カルガネーガ 100%

イタリアを代表する白ワイン「ソアーヴェ」の造り手では名門中の名門のピエロパン家。
ヴェネト州ヴェローナ市の東に位置する「ソアーヴェ」は同名の白ワインの生産で世界的に有名な町。
町の北東部分にソアーヴェクラッシコ地区が広がり、その中心部にピエロパン家が1860年、所有地を持った。
ラ・ロッカの畑は、ソアーヴェの町に建つ中世の城を背景にモンテ・ロッケッタの丘に位置し、初ヴィンテージは1978年。現オーナーのレオニルド・ピエロパン氏の祖々父にあたるレオニルド・シニアがこの地に本格的にワイナリーを設立し、またデザートワインとして高い評価を得ている「レチョート・ディ・ソアーヴェ」を造り出した。
世代を経て、レオニルドの醸造技術と数々の優れたアイデアで、ピエロパン社のソアーヴェの品質の高さを保っている。

さて、最後のご紹介はドニゼッティの歌劇『愛の妙薬』に登場する「デュルカマーラ」から名づけられたワイン 
デュルカマーラ トスカーナ ロッソ 2011 です
産地 イタリア/トスカーナ
葡萄品種 カベルネ・ソーヴィニヨン70%、メルロ25%、プティ・ヴェルド5%。18~21日間の醗酵。
トスカーナの北西部、リヴォルノとピサに近く、ボルドーのメドックにも類似する気候
醗酵は、自然の状態を保つため温度管理をしないセメントタンクを使用し18~21日間実施します。醗酵途中に葡萄の種子を取り出しワインのエグミを抑えている。
聴いたCD 歌劇 『ドン・ジョヴァンニ』指揮 ヘルベルト・フォン・カラヤンベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団 1985年
ワイン情報は下記のホームページから参照しました
  :イタリアワイン 専門店トスカニー
  :(有)森田屋商店
  :VinoVinoVino.com
                   レポート:K626井元

 

2016年10月31日

ヴァイオリンの聖地・クレモナを訪ねて

  平成28年5月17日より24日まで、水谷会長の企画のもと、流砂エージェンシーの谷岡社長のガイドにより、総勢17人で『北イタリア、オペラと観光の旅』に参加する機会をえました。鑑賞したオペラと観光旅行の概略については、前号に水谷会長と天野会員が寄稿されていますが、22日は私のみ単独でクレモナを訪問しましたので、その旅行記を投稿させて頂きます K.545 竹内
 ミラノのスカラ座、トリノのレージョ劇場、そしてヴェネツィアのフェニーチェ劇場と、三晩たて続けにしかも最上級の席で本場のオペラを鑑賞させて頂き、その感激がまだ覚めやらぬまま、5日目はいよいよヴァイオリンの聖地クレモナを訪れる日となった。
 
当日、私以外のメンバーの16人は早朝にフィレンツェの観光ツアーに向かい、私のみミラノ中央駅より南東方向に約75Kmの鉄道の一人旅となった。幸い切符は、流砂エージェンシーの谷岡さんが事前に手配して下さっており、案内の電光表示に従って18番線より電車に乗り込む。
 イタリアの鉄道駅は、相変わらず発車ベルの音も案内アナウンスもないまま、静かに発車する。 車窓から見えるロンバルディア地方の田園風景
 ただ発着ダイヤは正確で、二階建ての列車は見晴らしもよく、車窓から糸杉の並木がところどころに立つロンバルディア地方ののどかな田園風景を堪能しながら、1時間そこそこでクレモナ駅に降り立った。イタリアに旅立つ前に、四国山市の西村真也会員(松山モーツァルト協会会長)より高橋明さんというヴァイオリン製作者をご紹介いただき、メールで連絡をとりあっていたので、駅まで出迎えに来て下さり、その方の工房を訪ねることができた。
クレモナ大聖堂(筆者後方)  古代ローマ時代を思わせる風格のある駅舎を出ると、きれいな花壇がいくつも設置された広場にでる。
 
 そこからクレモナ大聖堂へ通ずるガリバルディ通りを少し進んでから路地を右に入った閑静な住宅地に高橋さんの工房がある。天井の高い、床はタイル張りのお部屋に入ると、左側には重量感のある作業机が二つあり、その前の壁面にはヴァイオリンを製作するために使う各種ノミやノコギリ類が多数整然とつり下げられている。この部屋は、もう一人のヴァイオリン制作者である菊田浩さんと一緒に借りているとのことでした。
 ちなみに菊田さんとは、数年前の名古屋モーツァルト協会の例会に西村会員と一緒に参加されたことがあり、面識があったのだが、ちょうど私たちがイタリアに来るのと入れ違いで日本に帰国されており、お会いすることができなかった。菊田さんは、2011年のチャイコフスキー・コンクールのヴァイオリン制作部門で優勝され、例会ではその優勝作品の楽器を持って参加されたのだった。そして、なんと高橋明さんは、そのコンクールで準優勝されていたのだ。(高橋さんのヴァイオリン制作者としての輝かしい業績については、末尾にホームページからその一端を引用させていただく)
 まだ日曜の午前中のため、市内のどの商店も閉まっているため、暫く工房の中の材木類や道具類を見学させていただいた。そのうちに、「真似事でもよいから、余っている木材を使ってヴァイオリンを作る作業の一部をさせて欲しい」とズーズーしくお願いしたところ、OKの快諾を頂く。
 さっそくヴァイオリンの表板と裏板の外形のすぐ内側に沿って描かれている二本線を作る作業を実際にやってみることになった。そしてこの「二本線」は、パーフリング(Purfring)と呼ばれ、実はなんと「象嵌細工」だったのだ。
 まず、わずか1ミリ幅で並んだ鋭い二枚刃で、表板の外形の曲線に沿って切り込みを入れる。次に別の工具で、外形線を傷つけないよう垂直に深く掘削し、丁度道路の側溝のような溝を形成する。深さは約2〜3ミリ程度。溝の底はまだデコボコなので、また別のノミで平らにならす。次は、別に作っておいた、二枚の黒板で一枚の木材をサンドイッチされた非常に薄い帯(厚さはやはり1ミリ)を、形成された溝に挿入する。表板の表面との段差は、精密なカンナでならす最終仕上げを行うと、なんと二本の黒線が浮き出てくるのである。
<ヴァイオリンの外形のすぐ内側の二本線(矢印)がパーフリング> 『さすが歯医者さん、安心して見ていられるよ』とのお褒め(?)のお言葉におだてられながら、悪戦苦闘の1時間。途中何度も手伝って頂いて、ようやく2センチのパーフリングができた。
<パーフリングを作成するための4本の器具> 今回、ほんの一部ではあるが、ヴァイオリンの製作に使われる本物の木材を専用の工具を使って加工する作業する体験をしみて、改めてヴァイオリン製作の奥深さと難しさを実感した。
写真はその練習作品と使用した工具類である。
 そして、かつてヴァイオリンの練習に励み、またヴァイオリンの演奏を何度も聴いていても、制作者が如何に情熱と技量を注ぎ込んでヴァイオリンをいう楽器を製作してきたかに、思いが至っていなかったことを恥じたのだった。午後は、クレモナ大聖堂の前のレストランでムール貝のスパゲティに舌鼓を打ったあと、
マルコーニ広場にあるヴァイオリン博物館(Museo del Violino)を訪問。
 幸い日曜日でも開館しており、見学者もまばらなのでゆったりと見学できた。
<ヴァイオリン博物館(Museo del Violino)の入口にて>
 この博物館は、それまでクレモナ市内のコムーネ宮にあった<ヴァイオリン・コレクション室>と<ストラディヴァリウス博物館>の二つの場所に分かれていたものを、2012年にクレモナのヴァイオリン製作技術がユネスコの無形文化遺産に認定されたことを受け、この統合されたものだ。 レンガ造りの美しい博物館は大きく9つの部屋に別れた展示室と室内楽ホールから成っている。
 ヴァイオリンの製造過程を示すパネルやヴァイオリン工房を再現した部屋もある。また実際にストラディヴァリウスが使った700点以上に及ぶ歴史的な製作工具や図面や型なども大切に保管され、依頼すればスライド式ケースのガラス越しに見ることができる。
<ストラディヴァリ像と並んで座る筆者>  何と言ってもこの博物館の目玉は、アマティ、ガルネリウス、ストラディヴァリウスたちの美術品のようなヴァイオリンの名器がガラスのケースの中に保管され、ひとつひとつ鑑賞することができることだ。
 『アマティと比べて、ストラディヴァリが製作したヴァイオリンは、表板と裏板の豊隆がより少ないのです。見比べてください』という高橋さんの説明を聞くと、なるほどガラスケースを通して横から見比べてみると、確かにストラディヴァリはより平板な感じをうける。
 実は、私は一度だけ、アマティが製作した本物のチェロを目の前で聴いたことがある。それは、かつて学生オーケストラのメンバーだった時、蓼科高原で合宿があり、その当時トレーナーの益田さんという方が、桐朋音大から借りてきて、モーツァルトのディヴェルティメントの一節を弾いて下さったのだ。いままで全く聞いたことない、まるで天国からの調べが舞い降りてくるかのような甘い芳醇な音色に、聞き惚れてしまったことを、今あらためて思い出されるのだった。
 幸いこの日の午後に、<クリスビー1669>と呼ばれるストラディヴァリ製作のヴァイオリンを生演奏するミニコンサートが館内で催されとのことで、早速拝聴する。演奏家はクリッサ・ベヴィラクアという若手女流ヴァイオリニストで、パガニーニ作曲の奇想曲や映画『シンドラーのリスト』の主題曲などの名曲を、解説を交えて、なかなかの熱演であった。これは私の勝手な解釈だが、やはり300年以上経っている楽器なので、「芯のある、しかし渋い、少々枯れた音色かな」というのが率直な感想だ。
 ミラノに戻る列車まで、まだ時間があったので再び高橋さんの工房に戻ることになった。そこで今度は、あえてヴァイオリンに塗るニス(塗料)についてお伺いする。これはいわば企業秘密ともいえるもので、他の追随を許さない独特の音色を生み出すストラディヴァリの名器の秘密が<塗料>にある、とも言われてきた。幸い高橋さんは何のためらいもなく、塗料の材料や染料とそれらを溶かす溶媒を気安くみせて下さる。そして塗料には<オイル・ニス>と<アルコール・ニス>の二種類あること、一回塗ると乾かすのに一日かかるので、二回目は翌日になる。結局塗装に一ヶ月くらいかかるとのこと。
その後、高橋さんの最新作のヴァイオリンを弾かせて頂く。といってもヴァイオリンを練習しなくなって40年あまりも経っているので、全く弾けない。
 
工房で自作のヴァイオリンを演奏する高橋さん
 高橋さんは相当な腕前で、なんと私が嘗て取り組んでいたヨハン・セバスチアン・バッハが作曲した無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番の<シャコンヌ>を練習されているのだ。ヴァイオリンの弦の擦り方や和音の微妙なズラシ方などを話し合いながら、また「ヴァイオリンの名器とは」などの談義に花が咲き、あっという間にお別れの時間となる。
 『自分は100年あるいは200年後にも評価されるヴァイオリンを製作したい』との高橋さんの並々ならぬ決意と情熱の言葉が、いつまでも耳に残る訪問でした。
高橋明氏の略歴:← タイトルをクリックしてください
 1970年大阪府枚方市生まれ
  13歳の時にヴァイオリンに魅せられ、演奏と制作を同時に始める。
 2000年にクレモナ国立弦楽器製作学校に留学。
 2005年第1回ルビー国際ヴァイオリン製作コンクール(チェコ)にて  優勝と同時に最優秀技術特別賞を受賞。
 2007年第2回アルヴェンツィス国際ヴァイオリン製作コンクール(ス  ロバキア))で第5位入賞。
 同年第13回チャイコフスキー・コンクール(ロシア)ヴァイオリン  製作部門で第2位。  
 2009年第3回ピゾーニエ弦楽器製作コンクール(イタリア)にて第1  位受賞。
 2010年同第4回ヴィオラ部門で第1位。
 2011年第4回アルヴェンツィス国際ヴァイオリン製作コンクール(スロバキア)で最優秀技術特別賞を受賞。
 2013年同第5回コンクールにて第一位ゴールドメダル受賞。
 宮地楽器ホームページ(特選品) ←ここをクリックして 高橋明制作ヴイラ、ヴィオリン商品説明の MP3 をクリックしてくださると、自身の製作楽器の音を聴くことができます。
 高橋明さんには、お忙しい中、私のために丸一日時間を割いてくださり、最後はクレモナ駅のプラットホームまで見送ってくださったことに、衷心より感謝するとともに、益々のご活躍をお祈りしています。
 そして機会があればまた是非ここを訪れたいと願っています。最後に、水谷会長の企画とリーダーシップのもとに、ミラノ、トリノ、ヴェネツィアの3都市での本場のオペラ鑑賞と、観光の旅に同行する機会をいただき、誠にありがとうございました
追記-1 塩川 悠子
 ここまで書いたところで、ストラディヴァリが製作した本物のヴァイオリンを手に取って弾いたことがあったことを思い出した。
 それは今から40年以上前の学生時代のことだった。塩川悠子さんというヴァイオリニストのリサイタルがあり、その演奏に感激して、楽屋まで押し掛けていったところ、ヴァイオリンケースに入れてあったストラディヴァリを『弾いてもいいよ』とおっしゃったのです。それで本当にいいのですかと尋ねたところ、『どうぞいいですよ』と重ねて言われる。それで恐る恐る天下の名器を取り出し、はじめは指ではじくピッチカートで解放弦の音を出してみた。しかしそれだけでは物足りなく思い、弓もお借りして、簡単なフレーズを弾かせて頂いた。これはあとで分かったことだが、塩川さんの持っておられたヴァイオリンは、往年の名ヴァイオリニストのヤン・クーベリックが愛用していた1715年製のストラディヴァリウス「エンペラー」で、ご子息で指揮者のラファエル・クーベリック氏から貸与されたものだった。
その時の率直な感想は、普通のヴァイオリンと同じように<弓でこすれば、取り敢えず音がでるには違いない。しかしそれではとてもとても本物のストラディヴァリウスの音ではない。ストラディヴァリ本来の音を響かせるには、この楽器と相当格闘しなければ、とても太刀打ちできないな、と思い知らされたのだった。<写真は塩川 悠子>
追記-2  イヴリー・ギトリス
チケット代を節約したため、席は最も安い最上階だった。そのため、演奏家の姿ははるか遠方の舞台の上に小さくしか見えない。しかしギトリスの奏でる音は朗々と響き、細部のニュアンスまで生き生きと訴えてくるのだった。
それで、もっと近くで聴けば、指使いも見えるし、きっとより豊かな音色が聴けると期待して、休憩時間のあと、一階の舞台近くの袖の空席にこっそり潜り込んだ。しかし、期待に反して音量も、響きも全く良くなく、がっかりしてしまった。
 よく言われることだが、近くでは結構響くが遠くではさっぱり聞こえてこない二流楽器のことを、<そば鳴り>という。確かにギトリスの演奏スタイルは一昔前のもののため、現代的な演奏とは言えなかったかもしれない。しかし、三百年以上前に作製されたヴァイオリンの名器の威力と魅力をまざまざと実感させられたのだった。<完>

 

2016年10月31日

モーツァルトと郵便

モーツァルトと郵便
K.515 鐘ヶ江
1770年3月3日
ミラノからナンネルに宛てたモーツァルトの手紙
モ-ツァルトは35年間の生涯に約300通の手紙を書き、そのうち約200通が遺っている(文献1及び2など)。
彼が書いた手紙の中から、その頃の郵便制度がどの様なものだったかを知ることができないかと、モ-ツァルト父子の手紙を読んでみたが、以下のことしか発見できなかった。
 
高橋英郎著「モ-ツァルトの手紙」(文献2)の情報からは
①郵便が火曜日と金曜日にしか授受できないこと
②料金は、手紙1通当たり、出す時も受け取るときも、「火を焚く費用」と同じ位の、12~18クロイツァ―(意外に高い!)かかること
③手紙はパリ=ザルツブルク間は10日かかったこと
④インクは、黒の他に青、赤、緑があったこと
⑤郵便で小切手も送れたこと
 など断片的な情報は得られた。
 その後、他に適当な資料がないかと探していたら、菊池良生氏の「ハプスブルク帝国の情報メディア革命」(文献3)を見つけた。以下は、同書に負うところ大である。
 さて、郵便(情報伝達)の歴史は古代に遡る。その手段は、狼煙(のろし)に始まり、伝書鳩、個人による口伝(マラソンの始まり)、徒歩飛脚、宿駅リレ-、騎馬飛脚、駅馬車、郵便馬車などの長い歴史がある。
 手紙の素材についても、陶板、羊皮、ナイル川のパピルス(paper、紙の語源)と言う流れがある。近代郵便制度は、神聖ロ-マ帝国のカ-ル5世(1519~1556)が、国の命令伝達のため、イタリア北部ベルガモの飛脚問屋、タッシス(ドイツ語ではダックス)家と郵便契約を結んだことを嚆矢とし、17世紀にかけて、次第に、手紙のリレ-輸送、郵便の定期化、料金の定額化、為替決済の導入などへと進み、また、郵便網も、ブリュッセルを起点にインスブルック=北イタリアへ伸び、また、インスブルック=パリ=スペインと言う幹線もできた。
 さらに、「帝国郵便」は、各領邦国家の「領邦郵便」と郵便契約を結び、ネットワ-クが広がっていった。しかし、郵便は国家あるいは領主の事業であり、ダックス家は、いわば、雇用された郵便総裁であり、各宿駅の駅逓長(郵便局長)は、資本が要るため、日本の旧特定郵便局長と同じく世襲であったと言う。かくして18世紀は「手紙の世紀」となり、富裕層が盛んに郵便を利用した。
 モーツァルト宛ヴァルドシュテッテン男爵夫人の手紙 サイン部分
 しかし、当時の手紙は「局留め」で、料金表に基づき、受取人も料金を支払った。封筒はなく、折り畳んで住所、宛名を書いたようだ。切手や葉書は19世紀を待たなければならない。したがって、手紙の秘密は保証されなかった(国の検閲権)。手紙は、遠隔地や外国の情報源でもあり、後に宿駅(郵便局)が新聞を発行するようになる。
 
 モ-ツァルトは、郵便に関する情報は遺さなかったが、郵便馬車の到着と出発時に御者が奏でる「ポストホルン」の貴重な音色を、セレナ-タ第9番(K320)の第6楽章に遺してくれた。なお、「ポスト」はイタリア語のpostaを語源とし、その意味は「宿駅を配置する」ことだそうである。
(参考文献)
1.柴田治三郎編訳「モ-ツァルトの手紙」(上・下巻)、岩波クラシックス、1893年
2.高橋英郎著「モ-ツァルトの手紙」、小学館、2007年
3.菊池良生著「ハブスブルク帝国の情報メディア革命-近代郵便制度の誕生」、集英社新書、2008年

 

2016年10月31日

都築顧問講評

「よう折の天才 カンテルリ」のお話、
「アイヌ神謡集に寄せて」を読んで
都築正道・名古屋モーツァルト協会顧問

 

2016年10月31日

都築顧問最新エッセイ集

私たち 名古屋モーツァルト協会の栄養素として最も必要なるエッセイのご紹介
都築正道・名古屋モーツァルト協会顧問

 

2016年10月31日

アイヌ神謡集に寄せて

アイヌ神謡集によせて
K617 田口
 
「輪舞」への寄稿依頼を頂いた頃のこと、7月22日の中日新聞に<「アイヌ神謡集」残した知里幸恵>という7段にわたる長文が掲載された。筆者は知里幸恵の姪にあたる横山むつみさんである。内容は、アイヌ神謡集<カムイユカラ>を初めて日本語に訳した夭折の天才少女、知里幸恵をめぐる話である。そこには、横山さんとアイヌ神謡集との出会い、そしてその希有な偉業を永く世に残すべく、幸恵の生地である登別に記念館を建てるに至った経緯などが述べられていた。
控えめな言葉の端々にアイヌ民族の文化伝承への熱い思いが滲む文章であった。知里幸恵が書いたアイヌ神謡集の序文は、文字を持たない民族の少女が書いたものとは思えない、美しく気品に満ちた名文であるが、横山さんの今回の文章にはどこかそれを思わせるようなものが感ぜられた。

 
その記事と相前後して私の手許に「知里幸恵 銀のしずく記念館」から、機関紙である「シロカニペ」の第12号が届いた。題名のシロカニペとはアイヌ神謡集の冒頭の詩句Shirokanipe ranran pishkan<銀のしずく 降る降るまわりに>から取られた言葉である。
  知里幸恵銀のしずく記念館
銀のしずく記念館は2010年に完成したのであるが、建設にあたっては資金の調達を始めいろいろと大変苦労された。金額はさしたるものでもなかったにもかかわらず、募金が思うように集まらなかったのである。私は、たまたま津島佑子さん(作家:1947~2016)が2007年3月に中日新聞夕刊のコラム「紙つぶて」に書かれた一文によってそのことを初めて知った。ちょっと大げさな表現ではあるが、義憤のようなものにかられ、直ぐ貧者の一灯を捧げ、爾来友の会会員としてささやかなご協力を続けている。
アイヌ民族のことは、20年ほど前「北海道旧土人保護法」と云う法律の存在が社会問題となったのを機に関心を持つようになり、以後その歴史を始めアイヌ民族に関連する文献を読み理解を深めるよう努めて来たところである。
*「北海道旧土人保護法」1899年(明治32年)制定。文明国としては些か恥かしい内容で制定後約100年の1997年に至って漸く廃止となった。代わって同年「アイヌ文化振興法」(略称)が成立した。

 偶然と云おうか、たまたまと云おうか、続く7月24日のNHK Eテレ、ベニシアさんの番組「猫のしっぽ」が何とアイヌの人たちの暮らしを訪ねるものであった。ベニシアさんが訪ねたのは阿寒湖コタンであり、知里幸恵ゆかりの登別ではなかったが、例えば山菜を採るにしても5本あったら3本だけを採り、残りの2本は神様のため、翌年のために残しておくというアイヌ民族の自然に対する敬虔な気持ちが随所に窺える内容で興味深いものであった。
どこか殺伐として潤いの感ぜられない今の時代にあって、自然の中に存在するもの全てに神が宿るととらえ、自然に対する畏敬の気持ちを忘れず、自らも自然の一部として生きる、というアイヌ民族が長年守り継いで来た姿勢こそお手本にしたいものと思ったことである。
会報の原稿を書こうとしていた折も折、このようなアイヌ民族に関る色々な事柄が偶然重なることになった。これも何かのご縁かも知れないなどと思い、当初予定していたテーマを敢えて変更した次第である。
さてここからは少しばかり音楽のことにも触れてみよう。
アイヌ神謡集はアイヌ語ではカムイユカラと云うが、ユカラというのは叙事詩を指す。ユカラには「人間のユカラ」(英雄叙事詩)と「カムイユカラ」(神謡)の二種類があり、カムイユカラは神々の世界の物語、あるいは神・自然と人間の関係についての教えを詠うものである。叙事詩であるからには文芸の系譜に属する訳であるが、ここでは音楽のジャンルにも関りを持っている。

アイヌは文字を持たない民族なので全ては口承で伝承される訳であるが、その口承は普段われわれが慣れ親しんでいる朗読のようなものではない。いろりの縁を棒で叩くなどしてリズムを取りながら、一定の節をつけ、繰り返し繰り返し延々と「歌われて」行くものである。節の調べは大体単純素朴で音域は限られている。いわばレシタティーボの繰り返しがどこまでも続くようなものである。フィンランドのカレワラが同じようなものではないかと思う。
アイヌの音楽は、西洋音楽の概念とは少し異なったもののようであり、唄、踊り、語り(ユカラなど)、器楽と云う分野がそれぞれ独立した存在になっているのではなく、互いに関りあって混然一体のものとなっている。似たような例を西洋音楽の中に探せば、バラードであろう。
*伊福部昭「アイヌ族の音楽」1959年より。
特徴的なことは音域が比較的狭く、単純素朴な旋律が繰り返し繰り返し延々と続くことであるが、この単調な繰り返しが限りなく続くことによって次第次第に盛り上がって行き、演奏される場の雰囲気とも相俟って、何か物の怪に憑かれたような不思議な効果を生むことである。
楽器について少しだけ触れると、代表的なものにムックリとトンコリがある。
ムックリは口琴と呼ばれ竹の箆に紐をつけたもので、口に咥えて紐を引っ張ることで音を出すものである。「ビョーン」という音高は基本的には一つであるが、息の出し方や口の形によってさまざまな倍音効果、あるいは音高の多少の変化も得られると云う。単純素朴これ以上無いような楽器であるが、ムックリもまた果てしない繰り返しによって前述したような不思議な効果をもたらすものである。
 6年前、2010年に来日したトリオ・メディイーヴァルというノルウェイの演奏グループがあった。三人の女性歌手の他に一人伴奏楽器を担当した男性がいた。彼はオスロ響のティンパニー奏者と云うことであったが、彼が使用した色々の民族楽器の一つに口琴があった。それはムックリのような竹製ではなく金属製のものではあったが、ムックリ同様口に咥えて指で弾くもので、奏でる音も全く同じ、単調な「ビョーン、ビョーン」でとても興味深かった。
このような楽器はモンゴルや台湾をはじめ世界のいろいろなところで民族楽器として存在しているとのことである。アイヌ民族はさて、どのような経路どのような経緯でこれを手にしたものなのか、そのルーツ、歴史を知りたいものである。
トンコリは樺太アイヌに起源を持つとされる5弦の撥弦楽器である。ギターのように指で弦を弾いて音を出すのであるが、胴は細長い板で作られており、ギターのように空洞になった共鳴胴ではない。胴の表面にはたいてい魔除けなどアイヌの特徴的な紋様が鮮やかな色彩で描かれていて美しいものである。

 
演奏は全て開放弦によるため、フレットもなければ、指で弦を押さえて音の高さを変えると云う奏法もない。いわば5弦のハープのようなもので、音域はおのずと限られることになるが、アイヌの音楽の中では異色の多彩な表現を伝えることが出来るものである。
この楽器は現在アイヌ民族の中でも伝承者はごく限られているようであるが、面白いことに現代音楽の演奏やロックバンドに取り入れられて、思い掛けない出番を得ているとのことでもある。ムックリについても同様の事例が見られるようである。
以上 音楽の話は付け足しとなってしまったがそれも含めて、先住民族、少数民族であるアイヌの貴重な民族文化を、同化政策という名のもとに消滅させてしまうことなく、確たる文化として後代に引き継いで行くことが私たちに求められる責務ではないかと思う次第である。

 

 

2016年10月31日

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